作成日:2013年04月27日 訪問日:2013年03月09日
38番札所 蹉陀山金剛福寺
37番岩本寺から次の札所38番金剛福寺まで約80kmを歩いた。
歩き遍路の22日目は、窪川町岩本寺から黒潮町の民宿まで約28kmを歩いた。途中の伊与川の色は、深い青に見える。曇りなので空の色ではない。黒潮町の民宿に泊まった。宿泊者は、一人であった。
歩き遍路23日目黒潮町の民宿から四万十市中村駅まで歩き、区切りとした。民宿は、6:00から朝食が用意され、早立ちができ、歩き遍路にはありがたい。港で働く近所のご婦人が数名、モーニングコーヒーを楽しんでいる。朝が早いのは、港の皆さんが利用する食堂であるからだ。朝食にも焼いた鰹がドカンと出てきている。ボリュームたっぷりの朝食で一日が始った。
朝から雨が降っているが、寒さは感じない。雨合羽でのスタートとなった。国道56号線を歩く。街中で交通量も多く歩道がない。危ないうえに溜まり水をひっかけられる最悪のコンディションである。正に修行の国を歩くこととなった。
歩き24日目は、暖かくなった3月に前回の区切りの場所、四万十市中村駅からスタートした。前日に大阪から夜行バスに乗り、この日の早朝四万十市中村駅に到着した。一週前の京都ツーデーウオークで足を痛め、心配なスタートとなった。
7:40中村駅を立ち、春の四万十川を南下して、今大師寺、真念庵を参拝したのち、土佐清水市久百々の民宿までを歩いた。真念庵へ向かう山道の登り口に、古びた丁石(道標石)が置かれていた。「足摺遍路三百五十丁石」の一つである。真念庵から足摺岬金剛福寺までの遍路道七里を一丁間隔で350丁の丁石が設けられている。
途中、休憩をしていると、近所の年寄から土地の話を聞くことができた。この地の盆踊りは盛大で、その時唄う「お笑いくどき」を披露して下さった。伊豆田から足摺岬までの地名を読み込んだもので、通して覚えているのは自分だけだと自慢していた。
15:30民宿「久百々」に到着する。約24kmを歩いた。金剛福寺までは、残り20kmである。女将によれば、この宿に荷を預け、金剛福寺まで40kmを往復し、翌日に宿毛の39番延光寺に向かう方が多いようである。
歩き遍路の25日目、いよいよ第38番札所金剛福寺を参拝する日である。足摺岬は、椿でも有名な名勝地である。季節が変わり、花は少なくなっていたが、雄大な太平洋と共に、その風景を堪能した。
鰹節工場では、カメラを向けるとピースのポーズをしてくれた。楽しそうに仕事をしている。羨ましい。
13:20金剛福寺に到着した。山門には「補陀洛東門」の額がかかっている。金剛福寺は、四国の最南端にある足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、広大な境内を持つお寺である。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得し、弘仁13年(822年)弘法大師が嵯峨天皇より「補陀洛東門」の勅願により建立したのが始まりと言われている。広大な境内に大きな太子堂が印象的である。
けもの道のような遍路道を歩く。時々すべりヒヤリとした。
伊与川の水は、青が際立って見える。写真には上手く映らないが。
13:00土佐佐賀駅に到着する。駅前には、鰹の町黒潮町のモニュメントがあった。
11:30土佐くろしお鉄道中村駅に到着する。次の特急列車まで2時間の待ち時間があるので四万十市内を散策した。
四万十川の赤鉄橋。
9:50四万十川の河川敷で何か干している。川海苔だろうか。
10:30大文字山を見ながら遍路道を歩く。500年ほど前、前関白が、京の戦乱を避けて家領の中村に下向し、京を思い始めたと伝えられている。
12:40真念庵を参拝する。天和年間(1680年頃)に寺間の長い37番札所岩本寺、38番札所金剛福寺、39番札所延光寺の三寺の中間地点に建てられたものである。宿や荷物置き場に利用されていたとのことだ。
真念庵近くにある「足摺遍路三百五十丁石」の一つ。ここの石には、三百四十三丁の丁石と記されていた。
12:40足摺岬に到着する。椿がまだ残っていた。
足摺岬灯台
足摺七不思議「地獄の穴」。この穴に銭を落とすとチリンチリンと音がして落ちていく。金剛福寺の下まで通じているといわれているが・・・・・
金剛福寺参道
金剛福寺の仁王門
大師亀、弘法大師が亀を呼び眼前に浮かぶ不動岩に渡って修行したと伝えられている。
金剛福寺境内
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